戦国時代人物 サ行
戦国時代人物 サ行


榊原康政(さかきばらやすまさ)

 1548〜1606

  榊原長政の子。徳川四天王の一人。家康の小姓になり、三河の一向一揆討伐で初陣する。この功により家康から「康」の字を賜った。家康が関東入りすると館林10万石を与えられる。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に付き添い進軍した。秀忠は関ヶ原の戦いに遅れたため、家康に怒りを買ったが康政のとりなしで怒りを解いている。
佐竹義昭(さたけよしあき)

 1531〜1565

  佐竹義篤の長子。1545年、父の死により家督を相続するが江戸忠通の反乱に遭い危機をむかえるも平定する。上杉謙信の関東侵攻を実現させると白河晴綱を攻め、奥州進出を果たす。1562年に子・義重に家督を譲り源真を名乗る。隠居後も小田氏治を撃破し大掾家に次男を送り込むなど常陸統一も目前であったが35歳の若さで死亡する。
佐竹義篤(さたけよしあつ)

 1507〜1545

  佐竹義舜の次子。弟・義元との家督争いに勝利し、佐竹16代当主になる。義舜の北進政策を継承し、領地を拡大した。1540年には従四位下右馬権頭に任じられている。
佐竹義重(さたけよししげ)

 1547〜1612

  佐竹義昭の長子。馬上での采配の見事さから「鬼義重」とよばれる。父の死後、危機を迎えるも、上杉謙信の関東侵攻を利用し危機をのり越える。常陸をほぼ統一し、白河氏を屈服させ次男・義広を送り込み当主とさせ、蘆名家に後継ぎがいなくなると義広を送り込んだ。石川氏・岩城氏・宇都宮氏などに婚姻を結び、従属させた。外交によって反北条、反伊達氏の包囲網を築いた。秀吉にはやくから接近し領地を安堵された。また、隠居してもなお、子・義宣を補佐した。
真田信綱(さなだのぶつな)

 1537〜1575

  真田幸隆の長男。体格が良く勇猛であったので信玄の側近として戦功をあげる。父・幸隆の死後に家督を継ぎ上田城主となり信濃先方衆として活躍するが、1575年の長篠の戦いで戦死してしまう。
真田幸隆(さなだゆきたか)

 1513〜1574

  信濃国人・海野氏の出身。真田昌幸の父。武田信虎と組んだ村上義清に追われ、所領を失う。武田信虎が信玄に追放されると、村上義清打倒のため信玄に仕官する。そして、信玄が二回敗れている村上義清を居城から駆逐することに成功する。その智謀は信玄を驚かせるものであった。
島津家久(しまづいえひさ)

 1547〜1587

  島津貴久の四男。貴久の子で一番の戦上手といわれる。大友家との決戦・耳川の戦いでは高城城防衛で活躍し、有馬晴信を救援し龍造寺家と戦った・沖田畷の戦いでは寡兵で勝利し龍造寺隆信を討ち取った。秀吉の九州平定軍には徹底抗戦を唱えたが兄・義久、義弘の説得で降伏する。しかしその直後、即死する。毒殺説がささやかれている。
島津貴久(しまづたかひさ)

 1514〜1571

  島津家の分家の出。島津忠良の子。反対勢力を屈服させ、本家の家督を継ぐ。国人衆などを従わせ、薩摩守護職を称する。フランシスコ・ザビエルが一番はじめに立ち寄った大名で、キリスト教布教を許したが積極的な支援はしなかった。子・義久に家督を譲ってもなお活躍し、完全に薩摩統一をする。
島津義久(しまづよしひさ)

 1533〜1611

  島津貴久の長子。日向の伊東家を弟・義弘に攻めさせこれを駆逐した。伊東家は大友家を頼った耳川の戦いで大友軍を打ち破り大友家を衰退させた。また、龍造寺家を沖田畷の戦いで破り九州統一を目指した。しかし、秀吉の九州征伐をうけ戸次川の戦いで勝利するが戦力の差を思い義久は隠居し降伏する。隠居してもなお、義久は実権を握っていたので弟・義弘と「両殿体制」となった。
志村光安(しむらみつやす)

 ????〜1609

  最上家家臣。関ヶ原の戦いのとき、直江兼続率いる上杉軍を長谷堂城で迎え撃ち守りぬいた。その功により酒田城主、3万石を与えられた。
下間仲孝(しもつまちゅうこう)

 1551〜1616

  下間家の傍流で下間小進家の出。下間頼照の子。下間頼之、仲之、仲康。下間3家老の一人。織田家との11年間の抗争を頼廉らとともに戦い抜く。織田家との和睦が成立すると書面に頼廉、頼竜とともに連署している。能楽に詳しく、「童舞抄」など書物も著している。徳川家康の舞の指導などもしている。本願寺分裂後は頼廉とともに西本願寺(本願寺准如)に属した。
下間頼次(しもつまらいじ)

 ????〜????

  下間家の傍流で下間小進家の出。下間光宗の子で下間頼清の兄にあたる。通称は下間兵庫。本願寺の坊官として一向一揆の指導者として活躍する。茶の湯に通じていたことから和泉堺の天王寺屋と交流があったといわれる。
下間頼照(しもつまらいしょう)

 ????〜1575

  下間家の傍流で下間小進家の出。下間頼清の子。下間述照、筑後守。本願寺顕如の命により越前一向一揆を指揮する。織田の降下に入った土橋信鏡(朝倉景鏡)を自害に追い込む。しかし、一向衆の統治を誤り反感を買い分裂を招いたため織田家に間隙をつかれ、敗北し斬首されてしまう。
下間頼竜(しもつまらいりゅう)

 ????〜????

  下間家の傍流で下間宮内卿家の出。下間頼慶の孫で下間真頼の子。按察使法橋。下間3家老の一人。茶の湯に通じており、堺の茶人・津田宗達らとたびたび茶会を開いている。織田家と和睦が成立すると頼廉、仲孝(下間3家老)とともに書面に連署している。本願寺が分裂したときは東本願寺(本願寺教如)に属す。
下間頼廉(しもつまらいれん)

 1537〜1626

  浄土真宗開祖・親鸞以来の坊官・下間家の傍流で下間刑部卿家の出。下間頼康の子で刑部卿法橋。頼廉は下間3家老の一人で法主・顕如の代筆をするなど教団経営、一揆の指導をし織田家と戦うなど雑賀孫一とともに大坂左右之将といわれ実質的な一向一揆の指揮官であった。織田家と和睦すると一向一揆収拾を顕如とともに行った。1589年に豊臣秀吉に本願寺奉行に任じられた。その後、本願寺は後継者争いが生じ、西本願寺の准如、東本願寺の教如に分裂し頼廉は西本願寺に属した。
鈴木重意(すずきしげおき)

 ????〜????

  鈴木佐大夫。紀伊の中では影響力のある家であり、雑賀衆の代表的存在であった。本願寺の要請をうけ信長らに対抗する。しかし、秀吉の紀州統一で屈し自害する。
相馬顕胤(そうまあきたね)

 1508〜1549

  相馬家14代当主。主に岩城家と争った。伊達稙宗の娘を妻に迎える。天文の乱ではその縁から稙宗に味方する。一時期は稙宗を居城・小高城に引き取っている。
相馬隆胤(そうまたかたね)

 1551〜1590

  相馬盛胤の次男。伊達輝宗に内通し討伐された草野直清にかわり中村城代となる。伊達政宗と雌雄を決すべく、兄・義胤と出陣するが、討死してしまう。
相馬盛胤(そうまもりたね)

 1529〜1601

  相馬顕胤の子。相馬家15代当主。伊達稙宗の弟・義宗の娘を妻に迎えている。しかし、奥州制覇を掲げる伊達家と衝突しないわけがなかった。伊達晴宗の代では優位に戦い、伊達輝宗の代では丸森城を奪取している。しかし、相馬家優位な時代も伊達政宗の登場で終焉を迎える。
相馬義胤(そうまよしたね)

 1548〜1635

  相馬盛胤の長子。相馬家16代当主。義胤が家督を継いだ頃は相馬家は完全に伊達政宗の脅威にさらされていた。これを蘆名・白河・岩城の3家と結び防ぐようにしたが、3家は次々に伊達家に撃破されてしまう。1589年に全軍を投入して伊達政宗と決戦するが大敗を喫する。この大敗で相馬家は滅亡の危機に瀕するが、秀吉の小田原攻めに参加することで領地を安堵され危機を脱する。